いい子に育てるよ・・・。

  Way 
                (つくし編)










1
昨晩、酔った招待客が付けた足跡は、未明に降った雪で覆われていた

冬のたよりない陽光が雪をキラキラ輝かせて何事もなかったかのような朝だった。

宴が上手く運んだせいか、楓の表情は穏やかである。

「司、昨日の挨拶は大変好感が持てました」

野鳥が小さな足跡をチョンチョンと付けている。

「有難う御座います。では、私は、日本に帰ります」

「此の儘残りなさい」

司の背中に静かな口調ながら有無を言わせない強さで、楓は言い放った。

「何だと!」

振り返った司の顔も青筋が立っている。楓はトドメの用意に掛かった

「貴方は、ここで仕事を覚えなさい。頑張り次第では<牧野さん>を呼ぶ事も可能です」

司は暫く考えを巡らせた後、楓を見据えた。

「そう言う考え方もありますね・・・・」

司は、楓の言葉を好意的に取った。が、楓は全く違う思惑でいた。



美作邸で久しぶりに顔を会わせたF3は、家業を手伝い始め、こうして揃う事が稀になってきていた。

うららかな日差しが広いリビングに入り、類は早速うたた寝をし

総二郎とあきらは女の話に飽きて沈黙が流れた。

「ヤバイな」

総二郎の言葉を発端に類は目覚め、各々物思いに耽る。

3人3様の手段を用いて帰国が遅れている司の動静は、ほぼ押さえていたが、

これをつくしに伝えて良いものか迷っている。主語が無い会話が成り立っていた。

「司の母ちゃんなら、やりかねね〜な」

あきらが吐き捨てるように言った。

「可哀想・・・」

クッションに顎を預けている類がポツリと溢した。

「類!牧野と連絡取ってるのか?」

類の隣に移動して総二郎は眠気眼を確認する。

「俺から・・・。きっと知らないよ。空元気が良い証拠」

総二郎の問い掛けに、溜息を付いて答えた。

「やっぱ、類は、分かってんな」

総二郎に目線を合わせ、あきらは同意を促した。

「だな」

「あの2人どうなっちゃうんだ」

我慢出来ずに、総二郎がとうとう本題を出した。類は途端に嫌な顔をする。

「俺らが口出しする事じゃねえだろ」

あきらは宥めように言った。

「でもよ、牧野は捨て・・」

類が、総二郎の口を塞いで発言を制した。

「それ以上言うな!」

険しい顔の類を見て、あきらと総二郎は顔を見合わせた。

「でもよ」

「総二郎、静観しようぜ」

あきらが宥め、類は又、目を閉じた。






メープル新山荘が誇る庭園を愛でる余裕は西田になかった。

楓の元で百戦錬磨の身を持ってしても、この穢れのない真っ直ぐな瞳の前では心が乱される。

先ほどから小切手が行ったり来たりしながら、その度に口すっぱく説明しても

頑として受け付けない。スケジュールも押し迫り決断を下すしかなかった。

「そうですか・・・。お受け取りにならないですか」

「はい」

つくしは又も屹然と言い放ってきた。

司への深い愛情を見たようで、こちらの方が金でカタを付けようとした汚さを感じ、恥かしくなる。

西田は僅かにため息をついた。

「では・・」

ツツと小切手を手元に戻し、ブリーフケースにゆっくり収めた。

最後の通達は、結果が分かるだけに、言いたくなかったがお努めでは仕方ない。

「それと大学部の方は、その儘、お通いになられて・・」

「あの」

言葉を遮りつくしは悲しみを湛えながら声をかけてきた。

(この期に及んで何を?)西田には予想が付かず構えるしかなった。

「はい?」

「道明寺は元気ですか?」

荒れてどうしようもない、とは言えず縁談が決まった事など尚更言えない。

嘘の重みを腹の奥に収めた。

「はい、お元気でいらっしゃいます」

「そうですか」

寂しい笑顔が造られる。

「では」

いたたまらず腰を浮かせた。合わせるように、つくしも立ち上がった

「色々お世話になりました。西田さんも身体に気をつけて、お元気で」 

深くお辞儀してから小さく笑った。明るく振舞う彼女が気の毒だった

苦悩を内に秘めて他人を思いやれる優しさに触れた西田は、

座りなおして任務以上の事を口走る。

「司様に、お伝えする事がありますか?私が責任を持って内密にお届けします」

つくしも座りなおし、少し考えてはっきり告げてきた。

「ありがとう。そして頑張って!ってお伝え下さい」

「はい、必ずお伝えします」

泣きそうな顔を見るに忍びなく、外に目をやった。一葉の葉が風に舞い上がってゆく。

前のつくしがバッグから財布を取り出した。律儀に置いてゆく姿が哀れだ。

「いいですよ、私がお呼びしたのですから」

「そうはいきません」

レシートを見てきっかりお金を置いた。

「さようなら」

力なくそう言って二度目のお辞儀を丁寧にして立ち去っていった。

大役をこなした西田の心に、満足どころか空虚が広がっている。

レシートの上に置かれた小銭をいつまでも見ていた。





誕生日以降、連絡がプツリと途絶えた事と、F3が腫れ物に触るような扱いで

司の周辺に、異変が起きたことは容易に想像が付いていた。

それでも、もしかしたら連絡だけでも入るかも、と僅かな希望は持っていた。

だが、西田からの呼び出しで、とうとう来るものが来たと思った。

どんなに、愛し合っていても、それだけでは済まされない環境がある以上

抵う事なんて出来ないのだ。

あのような愛し方を、他の人には出来ないのも分かっている。

お金で解決できるほどの安っぽい愛ではない、全身全霊で愛したから。

だから誰にも迷惑掛けず、一生心の中でひっそり思ってゆくつもりでいる。

「アンタと私の住む世界は、違い過ぎたね」

つくしは、雑踏の中、涙を拭ぐおうともせず歩いた。

「お嬢ちゃん、慰めてあげようか?」

ピアスを両耳に何個もしている男2人が、声をかけてきた。

普段なら、蹴りの一つでも入れる所だが出来ない。

「気味悪りーよ。行こうぜ」

「お高くとまってるんじゃねーよ。このブス!」

捨て台詞を言って通り過ぎて行った。

頭の中は、司が占めていて、もう二度と会えない事が悲しかった。寂しかった。

冷たい風が頬をかすめ、薄いコートの襟を立てながら当てどなく歩くけれど、

身体は無意識に司との思い出の場所へと向く。

動物園に始まり、うさぎ屋、ゲーセンはスロットに変わっていた。

ペットショップは規模が大きくなり、司が嫌がった子犬に似たワンコを抱かせて貰う。

「お客さん、それじゃ死んじゃいますよ」

店員が心配そうに子犬を見ながらに言った。

きつく抱いてしまったようだった。

「すみません」

ひったくるように子犬は取り上げられた。

何でもつくしの好きなものは、こうして取り上げられて行くのだ、と思うと涙が出てくる。

怪訝に思った店員を尻目に、つくしはその場から去った。

虚ろな心を抱えながら、レストラン近くまで来ると、風の向きからか香りが漂ってきて突然吐き気がした。

慌てて路地に駆け込み、胃の中の物を吐き出す。

朝から何も食べていないから胃液しか出なかった。

「あの香りは、嫌いじゃないのに・・・・・・まさか・・・」

そう言えば生理も来ていなかった。だけど司を気遣うストレスと思っていた。

つくしは、背中に冷や汗が流れるのを感じた。



眩しいくらいの蛍光灯に照らされる薬局の前で足が止まる。

心臓の鼓動が聞こえてきそうなくらい緊張して、目的の物を手に取った。

レジの女性が顔を覗き込むようにおつりを渡す動作が辛くて俯いてしまう。

意識過剰かもしれないが、そうなってしまった。

購入したものの、早く知りたい気持ちと、そうであって欲しくない気持ちを

持て余しながら、帰途はどのように着いたのか思い出せなかった。

気が付くと自宅のテーブルに座っていた。家族が誰も居なかったのは幸いだった。

バッグから検査薬を取り出して暫く眺め、覚悟を決めてトイレに向かう。

結果に、全身が凍りついた。





邸に赴いた西田は、司の部屋前まで着くと姿勢を改めた。

おそらく部屋の中は、足の踏み場も無いほど荒れ果て、荒んだ目をしているから覚悟が必要だった。

「失礼します」

ドアを開けた途端、一瞬別の部屋に来たかと佇んでしまった。

部屋の中はすっかり片付けられ酒臭いと思われた司が正気でいたのだ

「何だよ!化け物でも見たような顔すんなよ」

そう言って寛いでいたソファに浅く座りなおした。

「いえ、別に」

(薬で抑えているのか?)余りの変わりように疑ってしまう。

「帰ってくるの遅かったじゃねえかよ」

「はい。日本支社の秘書教育に時間が掛かりまして、」

「違うだろ?牧野に金渡しに行ったんだろ?」

重要な事を報告する前に司の眼が光り、言葉を遮った。

これから、自分がイヤになるほどの大きな嘘を付かなければならず、

楓に厳命されているからどうしようもないが、良心が痛んだ。

「はい。渡して参りました」

「元気だったか?痩せてなかったか?」

深い悲しみをたたえながら尋ねてきた。お互いを思いやる気持ちに、やるせなくなる。

「はい。牧野様も司様のことを同様にお尋ねになりました」

みるみる顔が明るくなる司に更に告げる。

「牧野様から伝言を言付かりました」

「え?」

「ありがとう。そして頑張って、と」

司は切ない顔をしながら小声で反芻しているようだった。

ここは一人にした方が良いと思い、一礼してドアへ向かった。

「俺、考えたんだ」背中でポツリともらした。

振り返った西田はそのままの位置で尋ねた。

「はい?」

「俺が荒んでいたら牧野が悲しむだろ?俺のイメージを壊したくないから止めたんだ」

二十歳の誕生日以降苦しみ抜いて出した結果だろうが、愛する人の為と言い切る姿が気の毒だった。

「そうでしたか・・・」

「ああ。アイツの言葉通りの男になるよ。仕事で頑張ってマスコミに顔を晒してやらあ。

それしか俺との繋がりはねえもんな」

この決意を褒める事も同調する事も出来ず黙っていた。

「俺は男だから我慢もできる。つーか今までは出来なくてカッコ悪かったが、

アイツは俺が嫌がったもんだから写真の一枚も持ってねえんだ」

「そうでしたか」

「それに、アイツが俺と同じ気持ちなら一生結婚はしねえだろうな。

だから俺も戸籍上は仕方ねえが、生涯、俺はアイツだけを思ってゆく」

このゆるぎない瞳は数週間前に見たつくしと同じだ。西田の心に変化が起こる。

この2人に関わるとそうなるのが自然のようだった。

「何か私に出来る事はございませんか?」

「アイツの身辺を守ってやれ、なんて言わねえよ。ババアが只じゃ置かねえくらい分かるさ」

本当には頼まれたいくらいだが、婚約者側が黙って見過ごすはずがない。

これ以上つくしの心を曇らせることは、敬遠したかった。

「そうですね」

「一つだけある」

「なんでしょう」

「日本で俺が使ってたリムジン持ってきてくれ」

「はい」

西田は不覚にも胸が一杯になり、早々に立ち去るのが精一杯だった。





「ねね、このタレント妊娠したんだよね」

優紀がバイト帰りに買ったばかりの雑誌を開いて言った。

司の話題をのせないのを知っているから、関係無い雑誌で優紀は気を使ってくれる。

けれど、<妊娠>という単語が頭にビンビン響いていた。

以前は、妊婦を見ても意識しなかったのに、最近は目がいってしまうし、

幸せそうな親子づれをぼんやり見ることもしばしばあった。

つくしは狼狽を隠して、一言返した。

「そうなんだ」

「できちゃった結婚するのかな」

「どうかな・・・私、これから用事あるから、ここでごめんね」

思い悩み時間ばかり過ぎて、妊娠と分かってから更に3週間も経ち、

打ち明けられない苦しさから逃れるように優紀の前から立ち去った。



トボトボと家路に向かう足取りは重かった。

優紀と別れてから思い立って区営図書館に寄り、震える手で探した医学書の内容に青くなった。

11〜12週までに決断をしなくてはならず、指折り数えてみると、現在9週で残りの猶予は2週間しかない。

余りにも大きな問題を抱え、心の中は揺れていた。

「あっ!すみません」

ぶつかった人が、詫びをいれながら通り過ぎてゆく。

「いえ」

既にいない人に向かって言っていた。

商店街の電気屋前に人だかりが出来て、歩行を困難にしている。

人垣の隙間からディスプレー用大画面が少し見え、懐かしく愛しい司が映っていた。

吸い寄せられるように、人を押しのけて、一番前まで近づき食い入る様に見る。

「一番前の、しゃがめよ、見えねえよ!」

あちこちからの罵声の声に、耳は貸さなかった。

傍らの女性は頬を染め、司はしつこいインタビュアーを嫌いながら仏頂面で質問に答えているようだった。

アナウンサーの声で企業合併云々、式場は何とか教会、式は11月何がし、と耳に通り過ぎた。

次の質問の僅かな合間、カメラワークが司のアップを捉える。

瞳はまるでたった一人を見つめるかのように強く、口元が微かに動いた。

<頑張る>

つくしには、そう言ったように見えた。思えた。

「西田さん・・・・・・・伝えてくれたんだ・・・・・・・

道明寺・・・・・ありがとう・・・・

・・・・・・・・今、アンタに会えて・・・本当に・・・・良かった・・・

・・・私・・・ とんでもない事・・・・考えてた・・・・

アンタは、何十万の社員の為に・・・頑張るんだね・・・・そうでしょ?・・・

・・・・それに比べれば・・・私は・・・・私は・・アンタと・・・私の子供だけ・・・

・・・・育てれば・・・いいんだよね?・・・・そうでしょ?・・・・・・・私・・・頑張る・・・1人で育てる・・・・」

小さな小さな声で呟いていた。

会見が終わり、隣の男が「ファンか?」と興味本位な言葉を投げて立ち去ってゆく。

閑散となった電気屋の店頭で、つくしは押さえることなく、泣き続けた





出産は決めたものの、家族に内緒は無理ある。

つくしは、夕食の片付けが終わってから

考えが甘いと言われようが誠意を持って話そうと茶碗を洗う手に力が入った。

「つくし、ちょっとおいで」

つくしの手が止まった。この発音は経験上、話す内容は良からぬことが多い。

内心の動揺を抑えて居間に入ると、父と弟は隣の部屋に行ったようだった。

「何?」

いつも座る場所でなく、つくしのそばに寄って来た。身体が硬直してゆくのが分かる。

元気のいい声でなく、母はボリュームを絞った声で尋ねてきた

「つくし・・・妊娠してない?」

「え?」

直球を投げられ、出鼻を挫かれたつくしは、片付け忘れた卓上醤油瓶をみていた。

「私がトイレ掃除もゴミ出ししてるからさ・・・分かっちゃったんだよ」

こんな些細な事柄から簡単に見破るとは、やはり母親である。

毎月大体決まった日に来る生理がない上、司の誕生日前に外泊していた事は当然知っていた。

いやあの時は両親の方が乗り気で邸に追いやったのだ。

「最近、道明寺さんから連絡もないようだし・・・ニュースがねえ」

母もどこかで見たようだった。

あれだけの有名人が大々的に報道すれば誰だって見ているはず。

「どうするの?」

気を付けることもできたのに、母は労わるように聞いてくる。

それでも、母を見ることが出来ずにいた。

「道明寺と約束したの。一人で育てるって」

醤油瓶が歪んで見えた。

残念な事に、この他に付け加える言葉はなかったが正直な気持ちだった。

「連絡してたの?」

母の驚きの問いに幾らなんでもTV画面の司とは言えなかった。

つくしは被りを振りながら伝える。頬に涙が伝わった。

「ううん、心の中の道明寺に」

「つくし・・・」

母はエプロンで涙をぬぐった。

「お母さん、家には迷惑掛けないから、一人で育てるから、だからお願い!」

つくしは正座に改まり頭を深々と下げた。

「そんな事言ったって、女手一つで育てるのは大変だよ」

「大丈夫、私頑張るから、出産ぎりぎりまで働くから、

出産費用も迷惑かけないからお願い!お願い!私からこの子を取り上げないで!」

頭上で母の大きなため息が聞こえた。

費用のことを口にしたから、何かを感じとったかもしれない。

追求する代わりの大きなため息が、全てを物語っていた。

「ここは狭いから妹の所に連絡しておくから・・・・」

言ったら聞かない自分を熟知している母は、諦めの口調で言った。

「お母さん、ありがとう」

母の膝に頭をおくと背中を優しくさすってくれる。

散々泣いてもう出ないと思ったのに、止め処なく涙が出た。





無理に押し切った形になったが、家族は優しく接してくれて申し訳ないほどだった。

翌日、大学に退学届けを出し、
出産費用が賄えないから、家庭教師のアルバイトも始める。

やはり英徳のネームバリュームの威力は凄く、中退でも直ぐに見つかった。

評判がよく、家庭教師先から紹介もされて、これで和菓子屋も辞められると思った。

何も知らない優紀に隠し通す自信もないし、お腹が大きくなれば分かってしまうことだが

やっぱりけじめはつけたかった。

電話で打ち明けると大泣きされ、ここまで泣いてくれる友人を捨ててゆくのだと思うとつくしも泣けた。

問題は静観してくれているF3、滋、桜子だった。

お腹が大きくなった自分がそばにいたら、彼らに迷惑がかかる。

大企業、名門の彼らにゴシップは命取りだ。

嘘は付きたくなかったし、放置も自分が許せないし、さりとて会って話すと、混乱を招く恐れがあって

手紙しか方法がないように思われた。

始めは一人一人に出そうか考えたが、一緒に見て貰いたい気持ちがあった。

実質主義のつくしは、しゃれたレターセットも持っていない。

最後だから買って来ようか迷うが、自分は最後まで自分らしくと考えた。

レポート用紙に裏と表を使って書いた下書きを心込めて清書し、再読してみる。



皆様へ

二年間、仲良くしてくれて本当にありがとう。
きっと私より事情は分かっているだろうから、この場では省きますが
この度、私こと、牧野つくしは、都合により東京を離れる事にしました。
決して探さないで下さい。
決して道明寺には、この事は言わないで下さい。
お願いします。

PS-1

花沢類様
いつもやさしくしてくれてありがとう。
非常階段での出来事は忘れません。うたた寝は止めたほうがいいよ。

西門総二郎様
お姉ちゃん遊びも程ほどに。

美作あきら様
マダム遊びはスリル過ぎます。

三条桜子様
泣かないでよ。私はいつでも元気だから。

大河原滋様
一緒に遊べなくてごめんね。



PS-2 これを読んだら捨てて下さい。



再読しているうちに、頬に涙が伝わった。彼らと過ごす日々はもう在りえない。

それでも子供を生む決心を鈍らせる事は無かったけれど、無性に人恋しくなった。

叔母の家に行くまでには未だ時間はある。

しかし早めに出しておいた方が人恋しさを一掃させる為にも、いいと思った。

一人で育てると決めたからには、逞しい母親になるには、センチメンタルになってはいけないのだ。

どうやって渡すかも問題である。

郵便を使う手段は始めから考えていなかった。

なぜなら彼らの両親に先に見られたら破棄される恐れがあったから。

花沢類の顔が浮かんでしまった。だがそうすると花沢類に甘えることになる。

やはり、英徳大学部の受付に言付けるのが一番いいようだった。

気が変わらないうちに、つくしは封筒に入れると玄関に急いだ。

はたとお腹を思い、ゆっくり行動する。





お腹をすっぽり隠す、流行りのファッションのお陰で

何件も掛け持ちしている家庭教師先にはバレずに済み、思っていたより資金も稼げた。

臨月になると、叔母宅に身を寄せて小さな雑貨屋を手伝い、

手が空くと海辺へ足を延ばして海の彼方を見詰めながら独り言が日課となっていた。

アメリカ大陸に続く海と空と風を感じていると、心が癒されて勇気が湧く。

それに、胎教ではないが、海の向うの父親を感じて貰いたかった。

「道明寺、明後日が予定日なんだ。だいぶ、お腹も降りてきたから、

そろそろと思うんだけど、未だお腹を蹴るんだよ。元気だよね。

男の子でね、もう名前も決めたの。「承」 良い名前でしょ?

アンタは、俺様だったから、この子には、そうなって欲しくないからさ。

人の事を謹んで聞く。フフフ 我ながら満足してるよ」

いつものように、一人ごちたあと、急にお腹が痛みだした。

とうとう、待ち望んだ時がきたようだった。

時間を計りお腹を両手で庇いながら、ゆっくり叔母宅へ戻った。



3128g 大きな産声でこの世に生まれた承は、父親似、しかも天然パーマだった。

ペチャパイの乳房が嘘のようで、お乳は沢山出て有り難く

叔母も、やれお餅が良いだとか、鯉を食べろと世話を焼いてくれる

「赤ちゃんを見てるのって飽きないねえ」

承の頬をチョンと弾いて、叔母の微笑む顔は柔らかい。

「ほんと・・」

つくしも承を愛おしく見る。

「姉さんから、もう直ぐ来るって連絡あったよ」

「うん」

つくしは元気よく答えた。

貧乏暇無しで、出産には間に合わなかった母は、つくし一人で生ませたことを、

電話口で泣いて詫びた。

腰が砕けそうになるほどの痛みはあったけれど寂しくなんか無かった

寧ろ、たった一人で喜びを噛み締められて嬉しかった。

母乳を与えるとむせながら飲む承の様子は、母親の実感が沸いて、1人じゃないと確信できて

本当に生んで良かった、と痛感していた。この子の為なら何だってできそうだった。

「姉さんも来るし、そろそろご飯の支度でもするかねえ」

叔母が立ち上がり際、テレビを付けキッチンに向かった。

「叔母ちゃん、ありがとう」

軽快なCMソングに乗って拍子を取りながら承をあやし、

CMが終了し特番が映し出されると、抱いている腕に力が入った。

そこには、祭壇を後にする司夫婦が映っていて、真っ白なタキシード姿の司と

新婦は、はにかみながら初々しくエスコートに応えていた。

 暫く振りに見る司は、相変わらず仏頂面だが 少し痩せたように思える。

「承、見てご覧。お父さんだよ。かっこいいでしょ?」

未だ目も見えていない承を抱き起こし、

テレビを見せて「よく覚えておこうね」と頬を寄せて囁いた。

いつの間にか、涙が零れ落ち、頬が濡れた承は、大声で泣き出した。

「泣かないの。承、泣かないで・・・お願だから、泣かないで」

ぐずる承を泣きながら、あやし続ける。

「承、お母さん泣き虫だよね、でも、これっきりにするから・・・・」

母子の泣き声がウェディングマーチに重なった。





もう何件周ったんだろう。つくしは、今まで見てきたアパートと比較しながら

出せる金額に比例する外内装に困って、溜息しか出でこなかった。

「お母さん、おんぶ!」

「もう少しだから、我慢しよ」

「やだ、やだあ」

ぐずり出した承を見ながら、ここに至るまでのことが浮んできた。

とにかく、よく泣く子だった。抱きあげると直ぐに寝入るが降ろす気配でまた泣く。

叔母宅では、抱っこして寝かせる日々が続いていた。

直接言わないが、叔母の子供達も年頃が多く、決して歓迎されていないのが分かり、

それに、小さな村の雑貨屋に買い物がてら

年寄り達は冷ややかな目で、数少ない若者は好奇の目でつくしを見てゆく。

何となく客足が減ったような気がしていた。

これ以上、迷惑を掛けることはできず、生後2ヶ月で実家のアパートに戻り、

乳児保育園と同時に就職口も探して運良く就職できのは、

中退とは云え、英徳の威力が子持ちでも発揮したからかもしれない

両親はつくしが戻って来たのを機に、一部屋多いアパートに転居し

実家の家計の補助と保育料に大半の給料は持っていかれ、

思うように独立資金は貯まらなかった。溜まっていったのは、睡眠不足と疲れだけ。

実家に帰ってからも夜泣きは収まらず、

全員仕事に就いている家族に気兼ねして、雨でも外へ出て、寝かしつけていた。

家事負担など甘え続けるのも限度があり、こうして2人だけの城を探しているのである。

(この程度で妥協するしかないか)

相当くたびれた物件だが、ここなら、少ない蓄えもすっかり出さずにおけるし、

仕事を変えなくて済む。

山の手線の中という利便性と大通りに面していないのも魅力的だった。

つくしは、この物件を第一候補にした。

はっきりしなかった気持ちが晴れて青空を見上げると、

不動産屋の店主に急かされ部屋を見る時には、気付づかなかった

彼方に聳え立つ道明寺支社ビルが少しだけ見えた。

忘れられない司に、見守って貰っているようで意欲が湧いてくる 。

「お母さん、何見てるんだよ?」

承は繋いだ手を揺すり、どうしても聞き出そうとする。

「何でも無い」

我が子を愛おしく見て、「承。ここにしよう」 とにっこり笑い頭を撫でた。

「ボロっちぃね」

傾きかけたボロアパートは、3歳の子供でも今住んでいるアパートより

ランクが下がっている事は分かったのだろう。

「フフフ、そうだね。承。今度は、お母さんと二人だけだよ。いい子に出来る?」

膝を折り問いかけた。承は、少し寂しそうな顔を見せた。

「じいちゃん、ばあちゃん、進兄ちゃんは居ないのかよ?」

「うん」

「でも・・・お母さんと一緒なら何処でもいいや」

太陽のような笑顔でいった。司も小さい頃は、こんな笑顔だったのだろうか。

前髪が長くなりそろそろ切らないといけない。

つくしはうっとおしそうな前髪をかきあげた。

「そうお?今度は1人でお留守番するかもしれないよ。いい?」

「平気だい!」

司そっくりな偉そうな顔で言い切った。

「フフフ 承は、強いもんね」

「そだぞ!」

日向の香りを抱き締めた。


10


出産から承の夜泣きに始まって、生活費を稼ぐ為に無理して来たからだろうか、

疲れ易く、節々が痛み幾らクリームを刷り込んでも肌が乾燥していた。

時の流れと共にそれが悪化している気もするが、

経済ニュースに時々登場する司を見ては元気を貰い、不定愁訴だと楽観的に考える。

こうして仕事に育児に励み母子だけの生活は、1年が過ぎていた。

「牧野さぁぁん」

声の主は、向かいの田中のようだ。つくしは、口にこそ出さないが(よいしょ)と腰をあげた。

「はぁぁい」

ドアを開けると、よれよれのトレーナーに不精ひげを生やした当人がダンボールを抱えている。

「どうしたの?」

「ええ、実家から送って来たから、お裾分け。

食いきれないから要らないって言っても送ってくるもんで・・・」

ダンボールを下ろし、蓋を開けると季節の野菜や米が丁寧に梱包されていた。

一つ一つ東京で暮らす息子を思いながら包んでいる母親の姿が浮んできそうだった。

「いいの?」

「助かりますよ」

安普請のアパートでは、この様な会話も筒抜けだった。

他の住人もつくしの部屋へと急ぎ足で訪れる。

「牧野さん、これ」

故郷の物産をそれぞれ手土産にしていた。

「じゃあこれで、鍋でもしようか」

抱えきれないほど貰って、はい、さようならと、薄情ではない。年も近いせいか誘いやすかった。

「はい!」

笑顔で揃った声が廊下に響いた。

つくしをうっとり見ている、5人に「お兄ちゃん達、顔が変だよ」承が素直な感想を述べる。

「承。ばっ、馬鹿言ってんじゃないよ!

俺らは、明るく、強く、逞しい牧野さんのファンなんだよ。なあ?

他のメンバーに田中は同意を求めた。

「そう、そう」と皆が頷いている。

「お母さんは、俺だけのもんだぞ!」

皆を睨みつけながらつくしの腰にしがみ付いた。

「当ったり前じゃん。じゃ、牧野さん是非呼ばれますからね」

田中は坊主頭を撫でくり回す。

「ハイ、ハイ」

つくしも明るく返した。

気さくな住人に囲まれ、ココに引っ越して来て良かったと心底思っている。

大家は、承を孫の様に可愛がり二言目には「何かあったら来なさいよ」と親身になってくれるし

隣の塚本は、ついでにと、承の頭を刈り、

向かいの田中は、自転車に乗せて大きな風呂屋にも連れて行ってくれる。

他の住人も、卵焼き一皿持って行くだけで感激され、こちらの方が恥かしかった。

承も、住人達に良く懐き、いつの間にか夜泣きはおさまっていた。


11


商品知識が多く社内で重宝されているつくしは、体調不良を隠していたが

最近、疲れからくる集中力低下でミスを乱発していた。

さすがの上司も怒るより心配の様子を見せ、「診てもらえ!」と早退を言い渡された。

重い身体を引きずり自宅近くの医院を訪ね、

告げられた病名を考えながら保育園に迎えに行くと「おかぁ〜さん!」承が飛びついて来て

身体がよろけそうになった。 医師との会話が頭をよぎった。

「牧野さん、貴女無理し過ぎですよ。一般に出産後、現れる症状ですが

5年も経っているしねえ。永続的甲状腺機能異常症になっています

「え?なんですか?」

「甲状腺ホルモン低下に起因する病気です。

一般的にはマタニティブルーの名前で知られています。

疲労、脱力感、乾燥肌、低体温が主な症状でね、牧野さんは全て出でいる。

放っておくと、動脈硬化が進み、心筋梗塞や脳梗塞などの動脈硬化性疾患が出ますよ。

また、心不全になる場合もあります。

薬を飲んで身体を休めれば直りますが、欠かさず飲まなくてはなりません」

仕事のミスといい、抱きとめる力の無さといい、流石のつくしも困惑してしまう。

「お母さん、どうかした?」

上目使いの目は心配そうだった。(子供にこんな顔をさせてはいけない)

つくしは、平静を装った。

「ううん、何でもないよ。承、美味しいもの食べに行こうか」

「うん!俺、60番の肉まん!」

美味しい物が肉まんと顔を輝かせて言う我が子が愛おしく、情けなった。

せめて大好きなことをしてあげる。

「承!オンブして買いに行こう」

「うん」

子供を笑顔を見ると鉛のような身体が軽くなり、飛び乗ってきた承をしっかり受け止めた。

母は強しの言葉が浮んだ。

「俺、オンブ大好き」

甘えた声が耳元でする。

「承は赤ちゃんの時からそうだったよ」

「ふ〜〜ん」

「それでね、直ぐ寝ちゃうの」

「俺は、もう赤ちゃんじゃないから寝ない」

「どうだか」

長い影法師に二つの頭がくっついている。

「寝ないやい!」

「分かった」

「お母さん・・・」

「なぁに?」

「お母さん・・・いい匂ぉぉい」

悪戯っ子で乱暴な言葉使いの息子が、何て可愛らしい事を言うのだろう。

安物のシャンプーしか使用していないこの髪を、良い香りだと・・・。

つくしは全身に力が漲るのを感じた。

「ありがとうね。承!」


12


気持ちと身体は別物で、病院に行く回数が多くなってきた。

今まで余り使わなかった年休を半分づつ消化しながら、時には身体を休め、

上司に嫌な顔をされても、食べて行くためには、身体も仕事も無理を押し通すしか方法はなかった。

つくしにしか出来ない仕事が立て込み、とうとう帰宅するなり布団に倒れこんでしまった。

「お母さん、大丈夫?」

荒い息のつくしを心配そうに覗き込んできた。

「うん、少しだけ休んだらご飯作るからね」

「いいよ、お母さんが痛くなくなるまで俺、我慢するから」

育ち盛りの子が言う事では無く、胸が詰まった。

「ごめんね」

「ううん」

数少ない玩具を出してきて、独り言を言いながら遊び始めた。

我が子の後姿を見ながら、なんとかしなくては、と思う。

貯えを切り崩しながら、身体の調子の良い時にだけ働こうか、

それとも実家へ・・・いや両方無理だ。

結果の出ない堂々巡りをしているい内に寝てしまい、

目覚めてみると隣に、承も小さく丸まって寝ていた。

これじゃいけない。身体を治さなきゃ、この子が可哀想・・・

手触りの良い髪を撫でながら思った。

布団をきちんと掛け、だるい身体を起して夕餉の支度に取り掛かる

「お母さん」

野菜を切る手を止めて振り返ると、承が畳にちょこんと正座していた。

テレビからお気に入りのテーマソングが流れ、いつもなら一緒になって歌うのに見向きもしない。

「なぁに?」

「何でもない」

(おかしな子)と思いつつ家事を続ける。

「お母さん、どうして俺んちにはお父さんがいないんだよ」

後ろからの声に手が止まった。

真実を告白するのは早いと思い、咄嗟に嘘が出てしまう。

「お父さんは、遠くに行っていて帰れなの」

つくしの心の中を見るように真っ直ぐな目があって、怯みそうになった。

「何時帰って来るんだよ」

「お仕事が終わったらかな?」

「仕事はいつ終わるんだよ」

子供の世界で詰問され、やるせない気持ちを不器用な問いかけの中に含めている。

それでも、つくしは嘘の上塗りをして意味の無い笑顔を造った。

「一杯あるみたい、それが終わったらかな?」

「どんくらい?」

「この部屋くらいかな」

「ふーん」

不満顔のまま又 玩具遊びを始めた。きっと嘘は見抜かれているのだろう。

子供心に、これ以上追求してはいけない何かを感じとったのだ。

いたいげな息子を正視するのが辛くて、支度に戻る。

「早く帰って来ないかな・・・・」

見えない所で唇を噛み締めるしか出来なかった。


13


神楽坂通り商店街の子供達は、長い休みになると毘沙門天を中心に遊ぶ事が多かった。

商売人の子供達ばかりなので親に纏わりつく事も出来ず、

ここにくれば誰かしら居て、暇を持て余すことが少ない。

承も大学の漫画売りが芳しくないので、寄ってみたのだが、

運悪くガキ大将の健太と鉢合わせになった。

以前、お父さんが居ないくせに、と蔑んだ目で言われ、

悔しい思いから、遮二無二殴りかかっていった。

体力的に五年の健太と1年の承では、端から結果は出ているようなものだが

ボコボコにされても泣かなかった。以来、主従の関係は強いられている。

「じゃぁ承が鬼でかくれんぼな」

健太は当然のように言った。承は真一文字にした唇から反論は出でこない。

「何だよ、そんな顔すんなら入れてやらねえぞ」

普段、家に帰っても誰もいないし、

自宅にある本は暗証出来るほど読んだし、「鬼」でも外で遊ぶしかなかった。

5年になると狡賢く、決めたエリア外に隠れるから探しようがなく途方に暮れた事を思い出した。

「いいけど、毘沙門天の中だけだよ!」

「そんな、ふくれっ面すんなよ!決まってんじゃん!」

健太は承を小突いた。その目は嘘を付いているのが明らかだった。

「行こうぜ!」

子供達はわっと散らばっていった。

毘沙門天の紅い柱に向かい合って両手で目を覆い、大きな声で30数えてから

「もーいーかい」と試しに言ってみる。

「まーだだよ」の声が遠ざかるのが分かるし、微かに、もーいーよの声が聞こえた。

承は少し間を置いてから先程より大きな声を張り上げた。

「もーいーかい!」

誰も返事がないのを確認して探し始める。鬼でもこのドキドキ感は、たまらかった。

そーと足を忍ばせながら毘沙門天の裏手までゆくと蕎麦屋の倅、彰夫の尻が見えた。

承は立ち止まってしまう。

承以上に健太を見つけることが出来ない保育園の彰夫を鬼にしては可哀想で

分からない振りをして通り過ぎようとした所、顔を覗かせた彰夫とばっちり目が合ってしまった。

仕方なく「彰夫みっけ・・・・」と小さく言う。

決まり悪そうに彰夫が出てきた。

「やっぱ、俺一番?」

「そう」

「残りの三人は5年だから多分出たね」

承に気の毒そうな眼差しをした。慣れっこの承は彰夫に微笑んだ。

「筑土八幡へ行こう」

手を取り合って通りを渡ると、救急車のサイレンが鳴り響いて来た。

承は繋いでいた手を振りほどいた。

「彰夫、俺帰る」

「承ちゃん、鬼じゃん!抜けたら又殴られるよ!」

「殴られてもいい!」

サイレンの鳴る方角がアパートの方からで心配で堪らない。

辛そうな母親の顔が浮んで、呑気に遊んでいられなくなった。

承ちゃーん、と心細い声を後ろに聞きながら、知り抜いている路地を全速力で走った。

「通して下さい」と言いながら人様の庭先だろうが一直線に駆け抜ける。

救急車より早く付かなくては、お母さんに会えないような気がして。

息も上がり苦しいけれど、お母さんの痛さよりマシだと思って。

承の頬に汗でないものが伝わっていた。

ゴム草履の鼻緒が穴から取れ、直す時間も、もどかしく裸足になって急いだ。

時々小石が足裏に食い込んでも、構わなかった。早く、早く、そればかり考えて走った。

サイレンの音が鳴り止んだ。不安が増す中、共同玄関にビーチサンダルを放り投げてドアを目指した。

「承。お帰り」ドアを開けると、パジャマ姿の母親が振り返った。

承は、へたり込みたくなる気持ちを抑え、母親の胸に飛び込んだ。


14


承が小学校2年生に進級した頃から、つくしの身体は悲鳴を上げ、

具合の良い時にしか働けない状態になっていた。

当然、勤めていた会社も辞めざるを得なくなり、アルバイトで生計を維持してゆく有様。

貯えも殆ど無くなり、長い付き合いの病院の支払いも滞り勝ちだった。

人の良い医者は「いいから」と笑顔で時々入院させてくれ、その日も朝から病室の天井を見ていた。

「牧野さん、お食事ですよ」

消防車のサイレンで一度目覚めたが、又、眠ってしまったようだった。

相当寝た筈なのに、一向に具合は良くならず、つくしは重たげに返した。

「あ、はい・・」

「午前中の火事は、神楽坂の万福寺で放火だってさ。

この暑い中、火遊びでも無いのに最近、馬鹿者が増えたわねえ」

カーテンを引きながら、火事の模様を知らせてくれる。

承が見に行っていませんように、と願った。

「そうですね」

「全く世の中どうなっちゃったんだろうね。

その点、牧野さんは偉いわよ、承君を1人でりっぱに育ててるもの・・・」

「いいえ、そんなことありません」

細くなった腕に目を落とした。

「駄目よ、弱気になっちゃ。この病気は治るんだから・・・」

肩にそっと温かな手が置かれ、励まされても元気は出てこなかった

「はい・・・」

「じゃ、又 後でね」

配膳をみても食欲が湧かず、これでは、実家に戻るしかないようだった。

動けるようになったら、早速 実行に移そうと思った。



次に目が覚めたのは、翌日だった。

入院すると毎日顔を出す承が今日は未だ顔を出さない。

何かあったら大家から連絡を貰うことになっているけれど、少し心配になった。

しかし、朝も食べられず、昼も少しだけ、頭も重く睡魔に勝てなかった。

「牧野さん!牧野さん!」

看護士長が慌てている。

目覚めたばかりで思考は鈍かったが、天井の照明と廊下の照明が薄暗く、

夜が更けたのが分かった。

つくしの動悸が激しくなり、丸一日、承が来てないことに今、気がついた。

重い身体を起し、「承に何かあったんですか?」と尋ねた。

「違うわよ。お客さんよ」

看護士の後から現われた上質なスーツを身に纏った男の社章を見て

先ほど以上に動機が激しくなった。

(もしかして承を?)

夕方のチャンネル権は承が握っているので、

司の動向は、夜半、寝静まったあとに始まるニュースで得ていた。

時々画面に映される司に、元気を貰っていたが、

身体が不調になるとそれさえも出来ず、過去の情報分しか知らない

それでも、司に二世が出来ないニュースだけは頭にこびり付いている。

鉄の女がしそうなことで、はらわたが煮えくり返ってきた。

「お帰り下さい!」

つくしはきっぱりと言い放った。

驚いた男は、諦めずにつくしの傍まできた。

「私は秘書の沼田と申します。支社長からの厳命で牧野様をお迎えに参りました」

「支社長?」

「司様は2週間前、日本支社長に就任なさいました」

初耳の話だが、いまのつくしには悲しいけれど縁のない人だった。

だが、これからは同じ空気を吸うんだ、と思うだけで嬉しい。

「そうですか。でも・・関係ありません。何の用事で来られたか存じませんがお帰り下さい」

「ご子息は、司様とご一緒ですよ」

頑として受け付けないつくしに、切り札を出してきたようだが、疑問しか沸かない。

「何故?承に会わせて下さい!あの子は私の子です!」

食べていないうえに、いきなり立ったのがいけなかった。

頭がクラッとして眩暈を起してしまう。遠い所で、会話が聞こえた

「このまま、運んで行きます」

「ちょ、それは困ります。血圧測らなきゃ」

「大丈夫です。道明寺セントラルホスピタルに転院ですから」

ここまで聞きとれたが、後は気を失ったようで覚えていない。


目覚めてみると、コンクリートにペンキを塗っただけの天井ではなく、

アイボリーのクロス張りで

気を失う前に聞こえていた道明寺関係の病院に転院したのは本当らしかった。

看護士に尋ねる間もなく、精密検査、血液検査、投薬とスケジュールが立て込み、

薬の種類が違うのか、身体が軽くなって来たのが分かった。

検査結果では、病状が重いだけで暫く安静にして薬を飲めば直ると告げられる。

そうなると早く我が子に会いたくなり、出来れば司に会って事実を確認したかった。

退院許可が院長直々におり、何となく、もう直ぐ会えそうな予感がしてくる。

2日前に会った秘書が大きな箱を抱え、

「これを羽織ってお待ち下さい」と言ってテーブルに置いていった

箱の中は、羽のように軽く滑らかなシルクのガウンだった。

気後れするが、着てきた服は見当たらず、

大人しくガウンを羽織って窓辺の景色に目をやると、今日も暑くなりそうな、太陽と青空があった。

こうして何も考えずに空を見上げたのは久しぶりだと思う。

いきなり勢い良くドアが開けられ、夢でしか会えなった司が現れた

承が抱きついて来ても 何かを尋ねてきても、生返事ばかりで目は司に注がれ、少しぼやけて見える。

(泣いてはいけない。始めにお礼を言わなきゃ・・・)

言おうとしたその時「迎えに来た」8年前と同じ優しい眼差しで言ってくる。

思うことすら許されない言葉だった。

胸が一杯になり、何も言えない。

 「ババァは知っていたよ、知らなくとも俺は迎えに行くつもりでいたがな。

あんな貧乏生活送ってて、バカ女が!」

乱暴な口調は相変わらずで懐かしく、

(会いたかった、私、頑張って承を一人で育ててきたよ)の言葉が喉につかえる。

「何も言うな、分かってる」

「おじさん、さっきから何言ってんの?」

釈然としない承は、つくしの顔を見て手を強く握った。

「承、悪かったな。俺が遠くに行っていた、お前のとうちゃんだ」

承は助けを求めてくる。

無理も無いことだが、もう、隠す事もなく、嘘も付く必要もないから、つくしは強い眼差しを返した。

けれど、納得するまでに時間は掛かるかもしれないと思っている。

 「だって このおじさん、会社行かないで アルバイトしてるんだもん

お母さんがこれ以上大変になるなんて嫌だよお」 

今にも泣きそうな顔で言った。

承の気持ちは勿体無いほどありがたいが、(アルバイトって?サボるって?)

何が何だかさっぱり分からないつくしは、返せないでいた。

それにしても、身を潜めるように暮らしていたのに、どうして分かったのだろう。

更に司が承と一緒にいたなんて信じられない。

どの様な時を過ごしたんだろう。承をどのように思ったんだろう。明るい想像が頭の中に広がった。

司の目が「帰ろう」と誘い、掴む事が出来なかった手に、恐々応える。

承がもう片方の腕にしがみ付き、楽になってきたとは云え、力が篭っているから正直痛かった。

「痛い!」

発した声に、2人の表情は、瓜二つである。

「おじさんもお母さんの身体を考えて離したんだろ?

俺 お母さんの<痛い>って言うの聞くと、いつも悲しくなるんだ。 おじさんもそう思ったんだろ?」

眉を下げ辛そうな顔でそう言った。

いつの間にか、息子を愛する気持ち以上に、自分が愛され、

そして8年間一度も会っていないのに司も同様に愛してくれていた

自分は幸せ者だと、しみじみ思う。

窓辺に行った2人を見ていると、おそらく始めてであろう子供を抱く仕草、首に回した息子の手

笑顔で語り合う様子、全てが愛おしかった。

一人で育て頑張り通した甲斐が報われた気がする。

戻ってきた司と反対に窓辺で佇む承は不満顔のままだった。

「バイト代」

お金に苦労させたから、言い張る気持ちも分かって辛い。

司の申し出に機嫌を直した承が背中に飛び乗り、いくらなんでも重かろうと、気を使う。

「いいよ」

小さく言い張ってしまったが、ヒョイと抱えられ逞しい胸の中は心地よかった


15


エントランスに居並ぶ使用人の中には、懐かしい顔もちらほら、

勿論、たまも居たけれど、司が慌しくその間を通り抜け挨拶もそこそこだった。

承が居る手前なのか、病院でも司はキツク抱き締めてこなかったが、

抱える腕から伝わる優しさがうれしい。

そっとベッドにおろされ、東の角部屋は当時の儘で、つくしは懐かしく辺りを見回した。

「変わらないね」

「あぁ、俺が承の相手するから、お前は休んでろ」

司に軽くキスをされ、顔が赤らむつくしだった。

「あー! エロい!お母さんに何するんだよ!」

承は司を指差しながら猛然と抗議をする。

「煩せえ。したいから、したまでだ」

「エロいーー!」

承は顔を真っ赤にして、部屋を出ていってしまった。

「承、大丈夫かな?」

「平気だろ。それより休め」

お言葉に甘えて横になると、司の残香がほんのりあった。

何年も司の香りに接していないのに、覚えている自分に驚く。

司も横に入って来て、胸の中にしまわれ、

温かく安心できるその場所に、つくしはしがみついた。

「ごめんな」

絞り出すように言った。

謝ることなんてないのに、そう思いながら胸が詰って言葉にならない。

ただ、かぶりを振ることしかできなかった。

「こんなに痩せて、苦労掛けたな」

背中に触れる温かな手は、壊れ物を扱うように優しい。

段々、鼻の奥がツンとしてきて、涙が出そうになる。

「会いたかった、すっごく会いたかった。忘れた事なんてねえぞ!

そう言って顎を摘まれた。

切ない瞳に切ない顔のつくしも映っている。

「愛してる」

先程より甘く濃厚なキスに応えているうちに、頬に伝わる涙を感じた。

司の結婚式を見て泣かないと心に誓って以来の涙だった。

唇が離れても、なごり惜しそうに見つめられ涙を拭ってくれる。

「じゃ、俺は承を見てくる」

「道明寺、もう少し傍にいて」

無意識に放すまいと思う心が言わせていた。

気持ちも身体も、ぎりぎりまで来ていたのかもしれない。

「懐かしいな、お前の道明寺って。しかも可愛い事言いやがって。

でも、もう言うなよ、俺の嫁さんなんだから・・・」

腕の中で穏やかな気持ちになってくる。

全てから守られているようで、救われたようで、張り詰めていた心がとけてゆく。

「俺な、自分の手で見つけ出したかったんだ。

けどな、離婚後、直ぐに行動したくても別れた女が腹いせに

俺の行動を全てチェックしてやがって出来なかった。お前が危険に晒されたら、

たまんねえからな。NYでは我慢してたんだ。

でもよ、お前の身体がこんなんだったら、無理をした方が良かったな。

ごめんな。全て俺の責任だ。早く身体を直して元気になれよ、な?

承を生んでくれてありが----------」

囁く声は、8年間で初めて安堵の眠りに入る前の子守唄に聞こえた


16


外国のTVドラマと一緒だった。

承は、驚きとキスの残像を消すかのように

角部屋を出て突き当たりを右に折れ、真っ直ぐな廊下を走り続けた

ここでは、「廊下を走っては、いけません」と怖い顔で言う先生も居ず、

いつのまにか、モヤモヤした気持ちが晴れて爽快になっていた。

遥か遠くの突き当りまでは距離があった。

途中で諦めて右に向きを変え、重いドアを何枚も両手で開けて行くと、 広間に出た。

正面の大窓から、太陽が差し込み、床にプールのような四角い模様を描き

見た事も無いような大きな肖像画が左壁に掛かっている。

良く見ると、朝、会ったおばちゃんに似ていた。

頭を上げると、きらきら輝くシャンデリアに目を奪われ、

外は、見事な花園の後方に、芝刈りをした庭が何処までも続き、

まるでカレンダーの風景が抜け出てきたようだった。

部屋を堪能した承は、行き着く所まで行ってみようと決めた。

探検気分で楽しく、ワクワクしている。

肖像画横にあるドアを開け、部屋を抜け、又、開けると沢山のドアがある部屋に出て、

一つ一つ開けている内に、何処から入ったのか分からなくなっていた。

辺りはシンと静まり返り、人の気配が全くしない。

心細くなった承は、「おかあさーん」大きな声で呼んでから、休んだ事を思い出した。

司の顔が浮かび、「おじさん」と、小さく言った。

次に「おとうさん」と、呟いてみる。

誰も居ない部屋で、「おとうさーん!」喉が痛くなるほど声を張り上げてみた。

それから、何遍も言い方を替えて言ってみる。何故か涙が出てきた



相変わらず寝入りの早さに苦笑しながら、承を探し始めた司は、

「おとうさーん!」と、微かに聞こえてきた声に立ち止まった。

言葉の響きに戸惑い、そして幸福感がフツフツと込み上げて来た。

(良いものだな・・・)気持ちが丸くなるのを感じる。

「司様・・」

承の声を聞いたメイド達が集まりだした。

つくしのことを知っている古株のメイドは目が潤んでいた。

「俺が探す。お前らは、手出しすんな」

一回きりの呼び声だが、この広い邸でも居場所を探し当てられる自信があった。

親子だから?司は口元を綻ばせながら急いだ。

大広間を過ぎた頃から勘が鋭くなり、目指す方向が確定に変わる。

泣き声が聞こえ(やっぱり)と自分の思惑を評価するより、

子供を思うホッとした気持ちの方が強かった。

親として当たり前の気持ちが自分にもあってうれしく、切なかった

司がドアを開けると部屋の隅に、膝を抱えて泣いていた。

「承!」

司に飛び込み、しがみ付いてくる。

「俺・・・俺・・・」

「てめえのウチで迷子になるな!」

「だって、あんまり広くて分かんなくなっちゃったんだよ」

司は、乱暴に頭を撫でてから膝を折った。「承 オンブだ」

背中に飛び乗ってこない承を怪訝に思い、振り向くと、涙に濡れた顔に抗議の色があった。

「なんだよ」

「お母さんに、エロいことしなかったら、オンブされてやる」

「それは無理だ。病院でも飛び乗って来たじゃねえかよ。ぐちゃぐちゃ言ってねえでオンブされろ!」

「うるさい!お母さんは俺のモンだぞ!」

「それも違う!俺のモンだ!」

司は僅かな本心を隠し、わざとそう言って、さっさと歩き出した。

「違う!」

承が走り寄って抜かしてゆく。司も抜き返した。

意地になってお互い抜き返しを何度も繰り返している内に、長い廊下まで出てきていた。

「承、こっちは母ちゃんが寝てる。お前はどっちに走る?セーノで同時にやろう」

肩で息をして睨んでいる承に立ち止まって聞いた。

試している訳ではないが、司に対する意地と母親の病気のどちらをとるか興味があった。

承ならそうするはず、と予想は付いているが。

「決まってるじゃん」

「そうか・・・じゃ、いくぞ、セーノ!」

「こっち!」

角部屋と逆方向を指した結果に、司と承は、ニヤリと笑い合った。





<終>

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しんどかったぁ!ありがとうございました!
2008.6.12